文化・芸術

海音寺潮五郎と司馬遼太郎

 「ペルシャの幻術師」で司馬遼太郎を見いだし、「梟の城」を直木賞に強く推したのが海音寺潮五郎であることは、司馬ファンのあいだでは人口に膾炙していることでしょう。

 ただ司馬作品はほとんどの作品を文庫で入手できる一方、残念ながら海音寺作品はその多くが絶版となっています。

 

 ちなみに双方読み比べてみると、小説巧者という点では、海音寺潮五郎が優れているなと感じることもあります。最近「蒙古来たる」という海音寺作品を読んだのですが、主要な位置に架空の人物や無名の庶人を登場させ、伝奇スペクタクルを展開しながらも、蒙古襲来という史実を鳥瞰できるという、なによりも娯楽小説として面白く読み進めることができました。大河ドラマにも取り上げられ、映画化もされた「天と地と」の場合、伝奇的要素は少ないものの、少年の成長過程が躍動感あふれる物語の中で展開されていきます。

 

 一方、司馬作品を読まれた人は僕と同じような印象を持たれる方もいらっしゃるかもしれませんが、「梟の城」「風神の門」「風の武士」そして最後の小説である「韃靼疾風録」などは、時代背景はテーマに違いはあれど、展開のパターンはほぼ同様です。また、「大盗禅師」や「妖怪」は、途中で物語が事実上破たんしています。海音寺は「妖怪」連載当初かなり評価して、新聞社にこれを大々的に宣伝すべしと手紙を送っているほどですが、結果はその期待には応えられなかったといえます。

 

 べつに司馬作品をけなすつもりなのではありません。僕は「竜馬がゆく」「国盗り物語」「燃えよ剣」の三作は歴史小説の金字塔だと思っていますし・・・。

 要は、海音寺作品がほとんど入手困難になっていることが残念でならないということだけなのです。ほんとおもしろいのになぁ・・・。

 

 

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「靖国」騒動

 例えば会議の席で、力を持っている人物がどう考えても理屈の通らない発言をしても、それに反論すると後が恐いので口をつぐんでしまう場面は結構ありますよね。

 KYってのも、みんなで野球観戦しているのに唐突にサッカーの話題を持ち出せばそうでしょうが、少数派の問題提起すら空気が読めないなどと言われれば身もフタもありません。

 まわりくどいかもしれませんが、映画「靖国」の上映を中止する映画館が続出する事態は、わが国トップの首相以下、上映中止に賛意を表する人などほとんどいないけれど、要は恐いという判断で上映中止を決める映画館が続出しているのです。

 映画館の前に右翼の街宣車がやってきて大音量で脅せば、確かに恐いでしょう。それに近所迷惑ですし。しかも上映すると、右翼がさらに大挙して押しかけてきて言うに事欠いて「国賊」呼ばわりされたんじゃたまったものではありません。

 こんな行為を誰も立派だとは思いません。しかしほとんどの人は「そんなことやめなさい」などとたしなめることはしないでしょう。なぜって恐いし、できることなら面倒なことに関わりあいたくないからです。

 言論の自由だの民主主義だのといっても、本来それを謳歌すべき国民が遠慮がちならば、せっかくの権利を行使していないということになってしまいます。

 もっとも、誰が聞いてもくだらない社長の発言をたしなめることのできない社員が少なくない現状では、おっかない右翼に脅されたら縮みあがる人が多数なのは無理ないのかもしれません。

 今回僕はまず、日本における民主主義の未成熟を目の当たりにさせられたような気にさせられました。

 さて、この一件は、日本芸術文化振興会という文化庁管轄の独立行政法人が助成金を出していたたため、「おかしいのではないか」と一部の国会議員が試写会を要求したことが端緒のようです。本音は「反日映画だから気に入らない」でも、建前は「映画の中身ではなく助成金を出すのが問題だ」との趣旨なのでしょう。

 僕は、助成金を貰ってもお上に遠慮せず映画制作ができるなら素晴らしいことだと思うのですが、これを機会に「助成金に厳格な基準を設けよ」などといった声が高まるのかもしれません。

 そもそも芸術はその芸術性をもって評価すべきであって、仮にそのなかに特定の政治思想が色濃く反映されていたとしても、政治とは次元を異にする世界だというのはあたりまえのことなのです。  

 皮肉な話ですが、いわゆる保守派の偏狭なナショナリズムが頭をもたげているようにも見えますが、偏狭などというのはひょっとしたら買い被りで、むしろ貧しいナショナリズムしか育っていないことを憂慮すべきなのかもしれません。 

  

 

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