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2007年5月

小沢さんて討論下手ですね

 安倍首相が大慌てで、こしらえさせた年金支給漏れの時効を撤廃する特例法案。マトモに審議もせずに数日で成立させちゃうつもりのようです。

 すでに時効を超えたものも遡及するため、表題に掲げた不払い分も一応は担保されるはずではあります。それにこの問題は、歴代内閣の責任が問われるものですから、特例法は本当だと全会一致であっても不思議ではないはずなのです。が、問題が指摘されながら頬かむりを続けたあげく、社会保険庁改革関連法案を委員会で強行採決してから、言うに事欠いて「救済」との名分での法提出ですから、当然納得はできません。国民に対してではなく、与党の選挙を救済するためというのなら一応意味は通りますが。

 加えて昨日の党首討論での安倍首相の話は噴飯モノ。小沢民主党代表から指摘されるや、問題が起きた原因を検証すると述べたわけですが、とするなら、強行採決した社保庁改革関連法案は、少なくとも、「消えた年金」問題について検証しないまま提出したということになります。この点について小沢代表の追及が審議を尽くすべき的な平凡なものにとどまったのは残念でした。審議を尽くすもなにも、審議の前提条件がそろわないような法案を出したことそれじたいを問題にし、国民に暴露するいいチャンスでしたから。

 党首討論ってのは、野党が点数を稼ぐためにあると言っても過言ではありません。まして政策の理解以前に語彙の貧困な安倍首相を追い詰めるなどさほど難しいとも思えないのです。もちろんブレーンが「ああいえばこういう集」なんてアンチョコをこしらえてはいるでしょうが、いくらブレーンが優秀でも役者がダメならお話にならないはずなのです。それを追い詰められない小沢代表ってのも正直不甲斐ないものです。もともと与党出身ゆえに質疑慣れしていないのでしょう。

 自民党内の議論が国会に引っ越したような党首討論は、国会審議をますます形骸化させること必定です。結果、審議の質を落とし、ひいては立法府の存在意義をおとしめてしまうことに、党首討論に臨む野党党首はもっと自覚的であるべきでしょう。

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慙愧にたえない?

 松岡農水大臣の自殺に対して、安倍首相は「残念だ。慙愧にたえない」と繰り返しコメントされました。首相周辺は「こういう結果に至った自らの責任をこの言葉に込めた」と解説しているようです。というのは、人の死に接して「慙愧にたえない」なんてどう考えたっておかしいわけで、それを払拭するために「深い」安倍首相の意図をわざわざ解説せざるを得なかったのでしょう。と、思いますが・・・・。

 首相周辺の解説どおりに解釈すれば「松岡農水大臣が自殺したのは、残念で、任命した私は恥じ入っています」と、安倍首相は、任命権者として反省し恥じ入っているのだということになります。

  ちなみに「慙愧にたえない」って言葉は誤って使われるケースがままあります。例えば、芥川賞作家の柳美里でさえ、自身の小説がプライバシーの侵害だとして法廷に持ち込まれ結局敗訴したときの会見で「慙愧にたえない」と述べ、その誤用を指摘されたことがありました。発言の前後の文脈からすれば、どう考えても「遺憾だ」という趣旨で使用したとしか理解できなかったからです。確か呉智英氏による指摘だったと記憶していますが。

 おそらく首相周辺は、コメントを聞いた瞬間、首相の意味の取り違えに気づいたでしょう。というか、日本語なんですから気づいてあたりまえですが。僕もテレビでこの発言を聞きましたが、首相の発言も前後の文脈で考えると、深い悲しみを表現する意味で「慙愧」と述べたとしか考えられません。

 それならそれでいいじゃないって僕は思うのです。突然のことで、適切に表現ができなかったとでも言えばそれで済んだのです。安倍首相は日本語もまともに操れないのか、って馬鹿にはされるでしょうが、まさかそれを理由に内閣総辞職にも不信任案可決にもなりませんから。 

 ついこの間までさんざん擁護しておきながら、死んだら「反省します。恥じ入ります」では、むしろ死者に鞭打つことになるのではないでしょうか。だって「恥じる」ってのは、恥ずかしく思ったり、面目ないって意味の言葉ですから、むしろ余計な解説を周囲が加えたことで、首相が自身の責任を重さを表現したというより人の死をことさらに矮小化したといえるからです。

 いずれにせよ今回の事件が、安倍内閣の終わりの始まりだということだけは確かだと言えそうです。 

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大河ドラマ

 山本周五郎「樅の木は残った」、司馬遼太郎「国盗り物語」「花神」といえば、いまでも文庫本で結構売れている作品群ですが、この三作ともにNHK大河ドラマに取り上げられています。ここんとこ、これらビデオをレンタルしてきて画面にかじりついていたのです。

 「樅の木は・・・」は、まったく記憶にないのですが、「国盗り・・・」は、当時小学2年の僕に鮮烈な印象を残しました。跡付けをすれば、おそらくは「生の躍動感」に圧倒され打ち震えたとでも言うべきなのでしょうか。再見してみて気づいたのですが、いくつかのシーンが30数年を経た僕の脳裏にほぼ正確に焼き付いていたのです。「花神」はやや年がくだって小学5年ですから、記憶という点では「国盗り・・・」の比ではありませんが、やはり登場人物のエネルギーに引き込まれた辺りは共通しているようです。

 斉藤道三、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、吉田松陰、高杉晋作、大村益次郎などなどこれらドラマに登場する歴史上の人物に対する史実としての彼らの事跡への評価云々ではなく、まして各々の人間性やら、生き方やらなどというものですらなく、ただひたすら彼らの挙措動作(むろんフィクションですが)ひとつひとつに理由もわからぬまま惹き込まれるなどという単純すぎる感動を手にすることが可能だった少年の頃を、おっさんは羨ましく思うのでありました。

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パッチギ!

 なんど見てもエエなあってって感じの映画「パッチギ!」。けっこう重たい、いやかなり重い話は散らばっているのに、しんどくないんですね。愛する者を残して、しかし愛する者のために戦場へってたぐいの日本製戦争映画は、愛をきちんと描けばいいのに、過去の歴史への厳しい目線に対して変に力んだり、開き直っちゃったりしているパターンが多くって引いちゃうんですが、(昨年だったか公開された「男たちの大和」はその臭味があんましなくてよかったですが・・・) 一方、イムジン河、在日コリアン、差別問題エトセトラってくると、引いちゃう人たちもいるでしょう。が、まずよほどの偏見があるか偏屈者でない限り「パッチギ!」は引かないでしょう。っていうか、重い話を娯楽作品に仕上げるって、井筒監督、お主大したもんやでと喝采を送りたい今日この頃、みなさん、いかがお過ごしですか、ってきっこのブログのぱくりになった今日この頃であります。

 フォークにはまったお寺の息子と在日朝鮮人のホルモン焼き屋の娘とのおとぎ話のような、ほとんどありえない純愛と、朝鮮学校と日本の高校生(どちらも高校生には見えないんですが)の不良どもの喧嘩を中心に、物語はテンポよく進んでいきます。この作品が何度見ても飽きないのは、おそらく登場人物がピュアな人々だということと、しんどいシーンと笑えるエピソードが交互に展開されるというあたりにあるんでしょう。

 ちなみに、僕は映画といえば基本的に娯楽映画が好きなもんで、なにかまじめなテーマを正面から取り上げたゴツイ作品はどちらかといえば苦手なんですね。もっとも「ガンジー」とか「アラビアのロレンス」、「JFK」はたまた古いところでいけば「市民ケーン」など映像が素晴らしければその限りではありませんし、泣かせる映画も例えば「ライムライト」やら「タイタニック」なんか涙腺がほとんどない僕もウルウルしちゃいましたし。まあなにはともあれ、「パッチギ!」のような徹底的に娯楽にこだわった作品は完璧にハマってしまうのです。そういえば「ゲロッパ!」もよかったですね。

 話は変わりますが、料理がいかにうまかったか、それを読む者に味覚を感じさせる文章を書くことができればおそらくノーベル文学賞モノだって思うんですね。同じように映画や絵画などを文章で評価するなんてのもほとんど神業に近いんじゃないかと思うのです。その点で言えば、ほんまにほんまもんの映画評論家や美術評論家なんてのがほんまにいるなら希少価値でしょう。

 見た映画のなにがどう素晴らしかったなど、縷々能書きを垂れる必要はないのです。なにがではなくとにかく「よかった」、なにがではなくとにかく「おもしろかった」が、僕の映画の楽しみ方なのです。まあ、単細胞といえばそうなんですけれど・・・・。

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地域格差問題の陥穽

 安倍首相はぜんぜんその気がないみたいですが、7月の参議院選挙で野党側は格差是正を一大争点とするでしょう。そのことは僕も当然だと思います。

 ただ、都市と地方の格差を取り上げる場合に、注意しておかないと大変な落とし穴に嵌ってしまう危険があることに、とりわけ政府・与党を追及する側は自覚的であるべきです。

 もちろん僕も、県民所得、有効求人倍率などの格差拡大と、それらが低い地域ほど完全失業率が高いといったことをみれば、地域間格差是正は喫緊の課題だと考えています。しかし、問題はその処方箋です。

 税財源の移譲などといった基本的な方策は当然主張すべきなのですが、政治が地域間格差を強調するその手法が極めて古典的だということに注意を払うべきなのです。

 というのは、今も昔も、地方がしんどいのは、なによりも人とカネを集積する主要な産業がないというのが大きな要因だからです。となると、てっとりばやい地方の振興策はなんだといえば、公共事業ってことになってしまうのです。僕は公共事業イコールムダとは考えませんし、住民にプラスになるとりわけ生活インフラ整備にピントを合わせて公共事業を展開する意義はあるとも思います。が、一方で、事業の質ではなく請け負う金額が第一義の地元業者が存在するという現実から目をそむけるわけにはいかないのです。となれば、地域格差問題の解決が地元ゼネコンへの利益誘導に短絡されてしまう危険は常に存在します。

 参議院選挙では1人区の攻防が与野党逆転の鍵を握っていることはいうまでもありません。そこで都市と地方の格差を強調することは改憲を主張するよりよっぽど有効だろうとも思われますし、現実に前者のほうが国民にとっては切実な課題です。しかし先に述べたように格差是正が矮小化されることをつねに意識しながら、その方策については慎重な検討と提起が必要だということも付け加えておきたいのです。 

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安倍首相に憲法を論じる資格はない!?

 連休明けの月曜日、一般紙は休刊なもんで、つい、なんでもいいやって週刊現代を買ったのです。大した記事はないなあとぱらぱらめくると、「安倍晋三に憲法改正を任せてはいけない!」ってのが目に入りました。保坂正康、福田和也両氏の対談なんですが、むろんどちらもいわば保守の方。改憲そのものにはさほどの抵抗はなさそうなのですが、ありていに言えば、安倍晋三づれに憲法なんぞという高尚なものを玩ばれるのは片腹痛いってことのようなのです。

 いまさら、安倍首相の底の浅さなど明々白々ですが、保坂氏(展人さんではありません。念のため)の指摘は、かなり的確です。氏は、安倍首相が「戦後レジームからの脱却」という言い方で、改憲を課題としている点をとらえ、

 「確かに、現行憲法が制度疲労を起こしたり現実と乖離したりしているのは事実です。だからレジームを変えなければならないのは当然」と述べられます。この点は、僕はまったく正反対の見解をもっていますが、大事なのは次に保坂氏が、

 「戦後レジームを論じる場合は、それが戦前レジームと対になっていて歴史的な耐用性をもっていたという事実を踏まえないといけないと思う。戦前のレジームを押さえたうえで、「戦後のレジームにもそれなりに効用はあったけれど、もう賞味期限は過ぎたんだ」という説明をしないと私は納得しませんね」と述べている点です。

 戦前と戦後レジームがいわば合わせ鏡のようにあることは当たっているでしょう。言い換えれば、大日本国帝国憲法と日本国憲法が対になっているということです。少なくとも保坂氏は後者よりも前者のほうが正当性があるなどという稚拙な議論はされません。現行憲法がもつ耐用性を認めつつ、戦前、戦後双方を止揚する論理がないとだめだと説くのです。

 僕がこの点を重視するのは、安倍首相の改憲論の空虚を見事に言い当てているからに他なりません。自らが理想とする日本の未来像を「美しい国」と象徴するのは個人の自由の範疇です。しかし、未来像のデッサンがないまま、まるで国の根幹たる憲法を変えれば万事解決するかのごとき、というか、改憲それじたいが自己目的化されている精神の貧困さは、むしろ改憲を真剣に考える者ほど腹立たしいでしょうね。

 もっとも、保坂氏も「戦後レジームの脱却」などというスローガンの意味合いを真剣に検討される誠実さは買うにしても、そのことじたい安倍首相をかいかぶっているようにも思えますが。だって、それを言っている当の本人さえ「戦後レジーム」ってなんなのかわかっているとは思えないですから。まあ、僕なんぞは安倍晋三なる人物が内閣総理大臣になるあたりに「戦後レジーム」なるものの脆弱さを見出してしまいますけど。

 「安倍が憲法改正や教育問題といったことを政治的争点にするのは、財政や福祉など、根を張った現実問題に対処できないからとしか思えませんね」

 と、保坂氏は締めくくっています。まあ、そんなとこなんでしょうけれど、その程度のことで改憲手続法=国民投票法が成立しちゃうってあたりに、まさに「戦後レジーム」を脱却しなければならない理由があるように僕は思います。

 安倍首相には気に入らない戦後なんでしょうが、こっちに言わせれば、アンタのじいさんたちが十分すぎるほどに「戦後レジーム」をボロボロにしたでしょって言いたいですよね。傷だらけの「戦後レジーム」を超えて、21世紀は「平和レジーム」の時代としたいものです。平和憲法を守ることこそ「戦後レジームからの脱却」を意味するのです。

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国民投票法批判のあり方

 ゴールデンウィークは、テレビも新聞も何らかの形で憲法問題の特集を組んでいます。先日のNHKスペシャルなどは、とりわけ憲法起案の事務方ベースの過程が克明に再現されている点できわめて秀逸でした。

 さて、連休明けには決着をみそうな国民投票法ですが、この期に及んでいまさらというリアクションが返ってきそうですが、反対する側の論理が混乱しているのではないかということをそれこそ今更ながらですが指摘しておきたいのです。

 ちなみに国民投票法と改憲の是非については、次のようにたくさんの考え方が存在し得ます。

  現在審議されている国民投票法案(以下法案)に賛成、改憲にも賛成。

  法案には反対だが、 改憲は賛成。(ちなみにこの場合、法案があまりに国民を縛りすぎだから反対という立場と、規制がゆるいから反対という立場がありえます。)

  法案には賛成だが、改憲には反対。

  法案にも、改憲にも反対。(この場合、法案についてはその内容には賛同できないが法案そのものの必要性は認める立場と、そもそも法案自体が必要ないという立場に分かれます。)

  以上、機械的に考えると、6つの立場が存在することになります。

  ここでは、「法案にも改憲にも反対の立場」について述べておきたいのです。

  要は、国民投票法の中身がよければいいのかという問題です。例えば、憲法で定められている国民投票の過半数を、有権者全体の過半数ならいいのか、有効得票の過半数ならいいのか、とか、最低得票率の定めがないことの是非についてなど、「中身」が良くなれば賛成するのかどうかです。

 少なくとも、僕は、現状において国民投票法は必要ないと考えていますから、中身の問題はそもそも次元が違います。なぜって、中身が問題だから反対しているわけではないからです。まえにも述べましたが、憲法が制定されて60余年、改憲しなければならない必然性があれば速やかに手続法を定める必要がありますが、そんな理由が見当たらないのに、手続法がいるわけありません。

 この点について、憲法上定められているのに、その手続法がないのは立法不作為だという意見は説得力がありますが、僕は、手続法=国民投票法の立法動機に合理性があるかのどちらを優先するかという問題だと考えます。というのは、当座必要のない法律ならば他の重要案件に優先させて制定する必要などないからです。 立法不作為状態によって具体的に不利益を受けている国民が存在するならば話は別ですが、まさか安倍首相も国民投票法がないから精神的苦痛を受けてきたなどとはおっしゃらないでしょう。

 いずれにせよ、改憲に反対でかつ国民投票法にも反対ならば、その法案の中身以前の立法動機においてその根拠がないとの批判こそ基本なのです。

 ですから、法案の中身について仔細に立ち入って論ずること自体、すでに改憲派の術中にはまっているとも言えます。ただし、僕は、だからといって中身の議論を軽視するわけではありません。政治判断として、国民投票法が成立する可能性が極めて高いことはいうまでもないことですから、その後を見越して、法案をせめてよりましに修正すること、法の運用に縛りをかけるために有効な国会答弁を残しておくことはそれとして意味のあることだからです。

 ただ、法案の内容がだめだから法案に反対だ、ではなく、必要がないから成立に反対なのだという点を鮮明にしておきたいのです。 

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