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2007年4月

ある首長選挙

 後半の統一自治体選挙も終わり、7月の参議院選挙への動きが加速しそうです。

 さて、僕が注目していたのは高知県は東洋町長選挙。高レベル核廃棄物処理施設の誘致を争点に、推進派の前町長と反対派候補の一騎打ちでしたが、結果は反対派の圧勝となりました。

 反対派の候補者は沢山保太郎氏。もとは東洋町に隣接する室戸市の市会議員だった方で、今回反対派住民に担がれ隣町の町長選挙を制したのです。

 その昔、狭山事件の犯人とされ長年獄中から無実を訴え続け仮出獄後のいまも再審を求めて闘っている石川一雄さんに対して、一審死刑の判決が下されたときのことです。当時沢山氏は新左翼の活動家でしたが、判決を下した浦和地裁を占拠するという行動に出たのです。行為への評価はともかく狭山差別裁判糾弾闘争の嚆矢となる出来事であったことは確かです。 学生時代、僕は部落解放研究会に属して細々活動していたのですが、氏が実はわが大学の先輩にあたることとあわせてそのエピソードを知ることとなりました。

 べつにさしたる活動をしていたわけではないのですが、糾弾、奪還といったコトバを発するだけでなにやらチト違うことをやってるんだって高揚感を抱いていた幼いころの僕にとって氏の実力行使はまさに羨望のまなざしでみる歴史的事実だったのです。

 という、ほとんど個人的な感傷以上なにものでもない理由で今回の東洋町長選挙にひきつけられてしまったのでした。テレビで見るかぎり眼光の鋭さに昔が偲ばれるものの白髪のおじさんって感じでしたが、今回の選挙はさまざまな不条理と戦い続けた一つの到達点なのかもしれません。抽象的な改革やらって話をする人は多いけれど、具体的な不条理をただす実践のほうが断然意味がありますし、カッコいいですよね。

 さほどカッコよくなくても、世の中のうちそとにある不条理をこつこつただし続けたいものです。

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政治活動における格差

 政治に対する関心の度合でいえば、確かに中高年層に比べて若年層のほうが薄いことは確かでしょう。問題はその理由です。おそらくいくつか挙げることができるでしょうが、その一つに政治に直接関わる機会が少ないということも背景にあるのではないでしょうか。

 ここでいう直接とは投票する機会ではなく、例えば選挙に関わるとか、議員となんらかの付き合いがあるとかいった類です。最近は議員インターンシップが盛んですから、けっこう学生も議員活動に直接触れる機会はあるでしょうが、社会経験の一つという範疇から超える場合はそんなに数多くはないようです。というのは、学生自身が私淑する議員とめぐり合えるとは限りませんし、そうしたキャリアを積むことが就職のメリットにもなるという現実的な判断で政治の世界にも関わっておくという問題意識の学生も多いからです。

 ただ僕は、年齢層が若くなるにつれて、議員との直接の関係が希薄になることそれ自体はむしろ歓迎すべきだと思うのです。というのは、議員とのつながりというのは、表面上はなんとでも言えますが、実際にはなんらかのしがらみがあるか、具体的な便宜供与を期待しているケースがほとんどだからです。現実に議員が評価されるのはその政策云々というよりも、例えば、就職の世話、入院の世話など個々の陳情をどれだけこなしているかに比重があることははっきりしています。

 そのことと重なり合った政治活動に縁が薄いという点では、一般的に関心が低いとされる若年層に、政治文化を変革する担い手としての期待を持つのはむしろ自然なことではないでしょうか。

 既存の政治に若年層が関心を持たないことを嘆く必要はないのです。むしろそこに新しい政治像を描く可能性こそ見い出すべきなのです。

 ただ、物理的に政治活動に身をおくことは現役世代、若年層にとってリスクをともなうものです。年金を受け取っている世代でも政治活動ができる人は、そこそこの年金を貰い時間の余裕がある層に限られます。まして自身で働き食っていかなければならない世代に、少なくとも利潤を生み出さない政治活動に挺身するなど、よほどでないと困難なのです。

 政治なんて結局一部の人たちのもので、投票に行くだけではなんにも変わらない、という発想は、決して健康的とはいえないにせよ、現実の壁を言い当てていることは確かです。いくら議会制民主主義が制度としてあっても、一定の年齢に達すれば選挙権、被選挙権が付与されるにせよ、自身が主体的に政治に参画することイコールあらかじめ用意されたメニュー(政党・候補者)を選ぶという行為でしか担保されないなんて、むしろ社会に対してさまざまな意見を持つ者ほど萎えてしまうのではないでしょうか?

 誰しもが物言いができる、その条件をいかに規制緩和するかこそ政治改革の基本ではないでしょうか。誰しもが同じ条件で政治に参画できる条件こそいま求められるのではないでしょうか。しかし、そうした問題に政党や市民派と呼ばれる既存の政治勢力、議員があまり触れないのは残念ですね。

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中国の外交に思う

 「氷を溶かす旅」と表した中国温家宝首相の来日。やはり中国はしたたかだとの印象が強く残るものでした。

 温首相の国会演説が実に格調高いものであったことは、誰しも評価するところでしょう。微妙な政治問題を文章の表現力で見事に包み込み、中国がいかに外交において他国の立場を慮っているか、さまざまな歴史的経緯にも寛大であるかと印象づけたこと、そして覇権主義的な中華思想が少なくとも字面には微塵もないことは、かなりポイントが高いものでした。

 日本の対米外交は「同盟」、対中は「互恵」というやや分かりにくい言葉の使い分けですが、端的に言えば、安保条約を結んでいるかどうかがということでしょう。中国側がしたたかなのは、実態はともかく、また日本側がどう認識しているにせよ「互恵」関係を「日米同盟」と同水準のものと対外的に印象付けたことです。

 これに比して日本のアジア外交は中国に見劣りすると言わざるを得ません。ただ、日本の場合、あくまでもアメリカのアジア戦略がまずあり、それを前提にして日本の役割がどうかということでしかアジア外交が展開できない、もしくはしてこなかったということにほかなりませんが。ただ、今後アメリカがそうした役割を日本に期待し続けるのかどうかは微妙です。というのは、米中関係においてアメリカが切るカードとして日本が必要な場面はほとんどないと想定されるからです。

 そのあたりを十分見極めて友好ムード一色に演出したのが、中国だったといえるでしょう。

 脱亜入欧をキーワードにした日本の近代化からすでに百数十年、まして「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す」などという緊張感ある外交は歴史教科書の記述のなかにしかありません。外交下手が身上の日本にとって「戦略的互恵関係」の「戦略的」が中国ペースのものになれば、中国の経済発展のために「無償の愛」を提供することにもなります。あくまで「互恵」であるならば、日本としての「戦略」を構築すべきですし、そのための障害は取り払うべきです。他国との緊張関係は決して軍事面だけではないのです。むしろ平和秩序の構築の過程でこそ、外交戦略を見極めるとともに国益について考えるべきでしょう。

 入亜のための日本の戦略が問われています。 

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国民投票法案成立へ

 これを書いている段階ではまだですが、国民投票法の採決はもうすぐのようです。参議院でもひと悶着はあるでしょうが、今国会での法案成立はほぼ確実です。

 むろん僕は、法案には反対です。憲法を代える理由が見当たらない以上、改正の手続きを定める法律が必要となる理由、すなわち立法動機が存在しないからです。

 もっとも自民党は改憲草案を世に問うていますし、改憲を党是とする自民党が与党にある以上、改憲それじたい有権者に了解されているという拡大解釈の成立します。安倍首相が改憲を最大のテーマに掲げているのも、もちろん本人の強い信念もあるでしょうが、自民党員としてはむしろ当然のことでもあるのです。

 しかし、彼らの決定的な説明不足は、例えば9条について、国際貢献などという美辞麗句を振りまきながらも、条文を代える決定的な理由は、要は主観を越えるものではありませんでした。憲法制定時に比べて、今の日本を取り巻く国際環境が、自国の防衛という点で悪化していること、現行憲法では国民の生命、財産を保証できないことを明確に示すことができて初めて9条改憲の根拠が浮かび上がってくるのです。しかし肝心要のところで議論が深まったとは到底いえません。

 もう一つの問題、というよりも僕はこの点こそ最大の問題だと考えているのですが、自民党の改憲草案は、憲法が権力に対する制限規範であるという基本中の基本をひっくりかえそうとしていることです。しかもそれほどの大きな転換を、権利ばかり強調して義務を忘れがちになってはいけない式の論理で押し通そうとするのですから、あいた口がふさがりません。憲法という規範によって時の権力が制限を受けることが、国民にとって不利益をもたらしていると根拠を示すのが筋でしょう。

 要するところ、代える理由については実にお粗末で、その意味ではこの間の国会での憲法論議それじたいが憲法に対する背信行為といっても過言ではないでしょう。

 憲法論議が神学論争なってはいけないといいながら、およそ本質とはかけ離れた議論にむしろ積極的に関わっていった民主党の責任も重大です。改憲が必要か必要でないか以前にそんな議論をいまやっている場合ではないことを共通認識にすべきだったのですから。法案を微に入り細に入り検討し修正を加えるのは、一つの法律案に対する向き合い方としては褒められるべきでしょうが、政治の世界に身をおく以上、つねに物事を政治的文脈の中でとらえる姿勢は必要です。民主党には護憲、改憲両派が混在していることもあるのでしょうが、法案の動きだけでなく与党ペースの国会審議のなかで、国民生活という基本課題がスッポリ抜け落ちた審議の流れを作ってしまったという点では、民主党は共同正犯といえるかもしれません。

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